安房ルネッサンス・宮下昌也さん訪問記

田中 正治

長狭街道と県道88号線が交差するところから、クネクネとまがる山道を約1km登って行くと、
人里はなれた、うっそうとした山奥に入ってきた感じ。
そこに子供たち3人と宮下さんご夫婦が居を構えておられた。

今日は、住居近くの「アートガーデン・コヅカ/森の家」で行われている本多先生(写真)指導の
「錬功18法」という気功体操教室に参加しておられるというので、早速私も参加させていただき、
その後お話を伺った。
(本多先生)


T−鴨川に移住されたのはいつ頃です?

M−1990年、東京からです。かみさんが鴨川の隣の天津出身で、結婚したころ成り行きで・・・・(笑)。
はじめは鴨川・曾呂地区の畑つき古民家に移り、友人の今西さん達と4人で共同生活していたのです。
今西さんたちとは東京・西国分寺で、共同生活の経験がありましたのでね。
(空と大地の対話)




T−どのように生計をたてられたのです?

M−ライフスタイルの選択として移住をしましたので、とにかく食わねばならない、
そのためには描くことで仕事を作っていかねばならない、サバイバルですね。
元々、大学ではデザイン科でしたのでね、描くことでいろんな表現をしていこうと・・・・。

鴨川に来てからも35歳までは、映画などの背景画の職人をしたり、
雑誌のイラストを描いたりしながら作品発表をしていたので、東京と行ったり来たり。
今は絵画、Tシャツのデザイン、壁画、CDジャケット、絵本、商品のラベル、
ワークショップのアート教室、ミュージッシャンとのライブペインティングパフォーマンスなど、
いろんな仕事を、自分で作っています。
(生態系の環)

T−今西さん達と共同生活するという発想は、どこからきたのでしょう?

M−共同生活自体は偶然が重なって始まったんですけど、高校生の頃東京・吉祥寺に通学していて、
結構ヒッピーにあこがれたりしていたんです。芸大2年生の頃、会社にデザイナーとして就職し、
会社の歯車のようになって行くことに疑問がわきあがって来たのです。人生が見えちゃったというか・・・。
それで、休学してインドに行ったのです。

強烈でした。インド人の生活を見て、”これでも人は生きていけるのか!
寝るところとメシがあれば生きていけるのだ!それに、実はこちらのほうがショックでしたが、
安宿で出会う世界中からの若いバックパッカーたちの生き方をみて、
人生の選択肢は1つじゃない、いっぱいあると思わされたのです。そうしたことが背景にあったのかな。
(大地の唄)



T−宮下さんが鴨川にこられた頃、どんな人が既に移住していましたか?

M−鴨川自然王国の藤本さん、和綿の田畑さん、木版画の今井さん、尺八奏者のネプチューンさん、
ハーモニクス・ライフの森田玄さん、有機農業の星野さん、エッセイストの鶴田静さん写真家レビンソンさんご夫妻、
木工家の山本さん、スペイン料理の岡部さん、曾呂の稲垣さんや中橋さんたちですね。
1980年代に移住した第一期移住組みといっていいのかな・・・・・・・。
学生運動系が多そうですね。
(森の子供)



T−宮下さんは以前、「地域通貨」を構想しておられたという、うわさを聞いたのですが・・・・。

M−実は、「安房マネー(地域通貨)」の立ち上げ会にも出席したんですよ。
そのとき僕は、地元のスーパー「オドヤ」や「シーワールド」でも使えるような地域通貨を考えていたんです。
地方の経済人にアクセスするのは困難じゃないはず、と思い込んでいました。
安房マネー」が友達間のネットワークとして考えられていたので、僕には肩透かしに感じられたのです。
鴨川では未だ、物々交換的発想が生きているんですね。これのほうが実際的かな?
僕は運動家ではないので運動をつくろうとは思っていないんです。
(夜が来る)

米、野菜、加工品、衣服などできるだけ知人・友人から買うようにしています。
家族の中でお金を回す、円で出来る実験もやっています。
例えば友人にお土産としてパンを持って行く場合には、かみさんが作っているパンを買い友人にプレゼントします。
息子たちが家庭内で働いてくれたらバイト代を払います。
長男は、もらったバイト代で毎月のケイタイ代を親に支払っています。
結局親が払うので同じじゃないかと思うかもしれませんが、そうすると自覚的になってきます。

お金はコミュニケーションのツールなんですね。お金を稼ぐことによって、
緊張感を持って社会にかかわれます。だから夫婦別会計でやっています。



(酔っ払いブルース)

T−最近、「アートガーデン・コヅカ」を立ち上げられたと聞きましたが・・・・。

M−僕の家は借家で、家主さんは東京の人だったんです。その人が周囲に7000坪の山林を持っていて、
2年ほど前なのですが、家も含めて買ってほしいといわれたんです。

拒否したら、家を出て行かなければならないかもしれない。悩みました。長く生活している間に、
自分達が山の生態系の一部になってしまっている、安堵感がある、そんな自覚があって、
人間対自然という感覚でなく、自然の中の人間、そんな感覚を失いたくなかったのですね。
それでお金をかき集めたんですが足りなくて、いろいろな人にこの山の魅力を伝えて、出資者を探したんです。
(古老の会話)

「アートガーデン・コヅカ」のキャッチコピーは“人と自然をアートでつなぐ”です。
これは“生態系の一部である人間”という、僕の山で得た生活感に連なっている構想です。
杉や竹でうす暗くなった山を50年前の明るい山に戻していく、アートを介在させて、
遊び感覚で山を切り開いていきたいのです。
月一回くらいの里山整備作業と「森の家」でのイベントを組み合わせながら・・・・。。
(絵葉書)



T−アートに関する宮下さんの考えを聞かせてください。

M−1990年代後半を境にしてアートに対する評価は、変わってきたように思います。
1980年代までの現代アートは、インテリや専門家対象で、哲学的で難解。
それがかっこいいと思われていたのです。ヨーゼフ・ボイスのように無形のパフォーマンスにまでいきついたんですね。
(森の家と宮下昌也さん)

でも、1990年代になると、”わかんないのはつまんない”と変化してきました。
1999年東京・代々木公園での”レインボーパレード”は環境イベントだったのですが、
アーティストがどっと参加して、楽しく、わかりやすいパフォーマンスをやったのが印象的でした。
(宮下夫妻)

20世紀アートは個人のアートで、内面性に価値をおいてきたのですが、
これからはアートが本来持っている社会性を取り戻す時期だと思います。
様々なジャンルのアーティストのコラボレーションによって作品や空間が作られ、
価値が生み出されていくのではないでしょうか。
個人の独創だけでなく、歴史の積み重ね、過去のアーティストが生み出してきたものの蓄積の上に、
共同で独創性を生み出して行くことが大切と感じますね。
(『かまどの火』のパンとチャイ)

T−ありがとうございました。

http://hoshimitei.blogspot.com/(宮下昌也のWebギャラリー)
http://www.hoshimitei.com/(宮下昌也の星見亭へようこそ)
http://pub.ne.jp/hoshimitei/(宮下昌也の近況報告)
http://www.ag-kozuka.net/(アートガーデンーコヅカ)

佐藤竹栄(竹栄接骨院)REPORT

竹栄さんと初めてあったのは、1992年藤本敏夫氏が
参議院選挙に出馬した時だった。
若くして藤本の”秘書”をしている有能な人という印象だった。
彼は鴨川に15年居を構え、現在、柔道整復師として信頼を得ている。
安房マネー会員でもある。僕も2008年末に”ギックリ腰”をやったとき
治療をしてもらい、1回で快方した。
数年前には「未来たち学校」のコーディネイターとして活躍した。

ー藤本選挙には、どうして係わったのですか?

ー1991年頃、東京で藤本氏と一緒に、東洋医学を取り入れた
”BODY トリートメント”の事業を立ち上げようという話があったのです。
でも、バブル崩壊で資金が集まらず、取りやめになった後、
藤本氏は”参議院選挙に出馬するぞ”と宣言したのです。
行きがかり上、秘書をやってしまったのですよ。

ー藤本氏と出会ったきっかけは?

ー1985年(20歳の頃)、仙台に藤本氏をよび講演を依頼したのです。
講演の夜、川原での打ち上げの時、藤本氏の隣に座ってしまったのです。
それが”運のつき”でした(笑)。彼は熱つぽく里山の多目的利用空間の話をし、
その中での医療の役割をいいました。
”医療者は農村で生活しなければならない”と。
僕は、里山の多目的利用空間での医療の話に興味を持ったのです。
当時既に「柔道整復師」の資格をお持っていましたので。

そこで1986年の1年間、鴨川で暮らしてみることにしました。
実験的に。おもしろかった。
じいちゃん達に竹細工やきのこ狩りを教えてもらったりして。
その体験がその後の出発点になったようです。


ーその後、どうされたのですか?

ー1987年から4年間、仙台で超ハードな「柔道整復師」の
インターンの修行したのですが、1992年、藤本氏に呼ばれて参議院選挙を
手伝うことになったのです。


ー藤本選挙は、15万票で当選圏には全く届かなかったですよね。
僕は、選挙を戦った仲間と一緒に「オゾン層保護プロジェクト」という
環境団体を立ち上げ、けっこうユニークな活動をして楽しんだのですが、
竹栄さんは、どうされたのですか?

ー仙台へ帰り、その後1年間、アジアへ旅に出ました。
ベトナム、タイ、パキスタンインドネシア、ネパールと。
そのご、再び鴨川へ行き、1994年、「柔道整復師」として「竹栄接骨院」を開設したのです。

ー実際の治療方法は”操体法”ですよね。どうして”操体法”なんです?

ー仙台に”操体法”の治療院「温古堂」があり、橋本敬三先生(創始者)がご健在な頃、
学生時代なのですが、フリーの見学や研修に行っていたのです。橋本敬三先生は
とてもオープンな方で、そこで学んで自由に”操体法”を広げていったらいいよ、
というスタンスだったんです。

柔道整復師インターン時代は、50〜60人の治療をしていて、
量をこなすことが求められていたので、その反動として質を求めて”操体法”に転換したのです。

操体法”をメインにした理由は、患者さんのリスクが少ないことです。
痛くない方に動かす、気持ちの良い方に動かすですからね。
また、部分でなく全体的治療ですから、直りが早い。
さらに内科的疾患かどうか見分けやすいのです。

ー患者さんは毎日何人くらいみているのですか?安房マネーも使えるんですよね?

ー開設した当初は1日、1〜2人でしたが、現在は毎日10人くらいですね。
力が要らないので、あまりつかれませんが。
安房マネーは治療費の30%受け入れています。
毎月1〜2人の安房マネー会員が治療にみえていますね。



ーどういった患者さんが多いですか?

ー捻挫、首、肩、ひざの痛みで、看護系、福祉系、農業系が多いようです。



―「未来たち学校」のコーディネイターとして活躍されましたが、
今どういう印象を持っていますか?

―水、海、化学物質、廃棄物、森林などをテーマにしてやったのですが、
自分たちの勉強としてはとてもよかった。地域の人もたくさん来、
環境に興味を持ってくれたのですが、何かをやろうということにはならなかったですね。


―もう一度「未来たち学校」をやろうとおもいます?

―再度やるとしたら、主旨を変え、具体的な計画を実施するための
環境学習なら良いかもしれないですね。


―2004年に「竹栄の鴨川エコシティー構想」を発表しましたよね。そのポイントは?
http://www.k-sizenohkoku.com/tt/tt_anguro/tt_anguro_kamogawa.htm

―鴨川にとって環境が、観光の問題であり、産業ブランド育成につらなるということです。
リンクしています。鴨川の海がきれいということが、
鴨川の野菜がうまいということとつながっていなくてはいけないのです。



―現在、鴨川の最重要な問題は何でしょうか?

―資本主義は崩壊しはじめています。次の質を求めているのです。
物と投資が分離しパンク状態にあります。新しい質とは物と金がくっついていることです。
例えばフェアトレードNPO や中小企業製造業のように。
具体的には、エネルギーの形を変えることです。石油エネルギー型ではなく、
どこでもエネルギーを作れるようにする。太陽光発電、小型水力発電
バイオマスエネルギー、海水温度差発電、風力発電
大企業がものを作り輸出する形ではなく、中小企業がネットワークでこうしたエネルギー技術を
広げ、大企業並みに機能させ、地域の中で消費して行くのです。
電気自動車も町工場が作り、キャパシタでの蓄電も利用していく。
こうした地域エネルギー自給、中小企業の時代を前提にして、地域を構想していくことです。



―そこから鴨川を構想すると?

―まずエネルギー自給からはじめ、環境にリンクさせ、観光事業にリンクさせ、
産業にリンクさせていくことです。



―福祉については?

―医療施設は亀田病院はじめ充実しているのですが、介護が必要になる前の福祉、
つまり予防福祉が足りないのです。家にこもっている人が自由に外出できるような
システムが必要です。コミュニティーバスではなく、コミュニティータクシーです。
玄関まで来てくれると外出しやすくなるでしょう。
公共施設が住民のいろんなニーズに応えようとしても応えきれないでしょう。
行きたい人が行きたいところへいけるようにすることです。
それにはコミュニティータクシーの仕組みを作りそれに助成し、
安く利用できるようにすることです。
誰もがデイサービスを利用すればデイサービスはパンクします。
所得に対する税負担を30%くらいにして、高福祉・高負担システムが必要です。
医療費、介護費、生活費保証をするのです。その場合ネックは銀行や保険会社です。
生活不安から人々の貯蓄率が非常に高いですよね。このことで銀行や保険会社は
儲かっているのです。生活保障すれば銀行や保険会社に頼らなくなるでしょう。



座右の銘はなんですか?

―「判断したことに責任がもてますか」。
患者さんのリスクを減らすことがモットーです。

―ありがとうございました。

1.24「鬼泪山」問題を考えるフリートーク
〜砂取りのために山がなくなっていいの!?〜


千葉県民の皆さん!房総の自然を愛する皆さん!
かつて東京湾岸埋立開発のために、富津の山(浅間山)が一つ跡形もなくなくなり、
かろうじて残された山もはげ山のように無惨な姿をさらしています。


その後、開発で潤うよりも自然の保護を求める声に押されて、
千葉県は富津に残された鬼泪山の国有林について、
山砂の採取を目的とした国有林の伐採を中止にしてきました。


しかし、昨年9月、突然山砂業者がこの禁止の解除を求めて土石採
取対策審議会の再開を求める請願が9月議会に提出されました。
そして自然保護よりも 開発を優先する自公議員の賛成により請願が
採択されてしまいました。この請願を受け て、堂本知事は「反対」を
表明しながら、この27日に土石審を開催することを決めました。


かつては国有林を経営のために売り渡してきた林野庁も、今日で
生物多様性の維持や地球温暖化防止、森林の果たす保健機能の
増進などのため、積極 的に保全を図る政策を打ち出しています。


県も異例なことに、土石審に多くの県民が関心を持って傍聴に参
加できるようにとの配慮から、120席もの傍聴席を用意しています。


私たちは多くの県民、自然を愛する市民にこの「鬼泪山」問題を
知っていただきたいと思い、以下のようなフルートークの場を設け
ました。ぜひ多くの 方の参加をお待ちしてます。


日時  1月24日(土) 16:30〜20:00
場所  千葉市・きぼーる16階 多目的室

スケジュール
16:30〜17:00 受付開始
17:00〜18:45 各分野からのトーク
18:45〜19:00 休憩
19:00〜19:15 ビデオレター上映
19:15〜20:00 意見交換&交流会

※交流会(カンパ制)ではお飲み物が出ますので、
出来る限りご自分のカップをお持ちください。

<問い合わせ先>
鬼泪山「国有林」の山砂採取に反対する連絡会
代表・藤原寿和
TEL090-1792-4985 FAX047-373-4006 
E-mail:QZG07170@nifty.com

テトラスクロール主催・真魚長明さん訪問記

11月だというのに、とっても日焼けしていて夏の雰囲気がする。
真魚さんはサーファーなのだ。館山恒例のour awa marketで、
楽しそうにコーディネイトしているのが印象的だったので、
一度お会いして、ゆっくりお話したかった。

真魚さんは40歳代前半で、鴨川市江見在住。東京から移住して15年になるそうだ


T− 鴨川に移住される前は、どんな仕事をされていたんですか?



M−広告アートディレクションです。アートや音楽の仕事です。
  バブルは崩壊していたのですが、その実感はなかったんです。
  環境や健康にシフトする企業と広告代理店の間に入って、イルカとかクジラとか、ガイアや気など、
  意識の時代への変化を企業から発信するためのお手伝いをしていました。


  高校時代には世界が知りたくって、アートや音楽やファッションに興味があって・・・。
  20歳過ぎには、ロックンロールやパンクロックの思想的背景に共感したり、
  ヨーゼフ・ボイスのアートと社会を関連づける思想に衝撃を受けたりしました。
  アートディレクションの仕事はその延長線上にあったともいえるのですが、
  何か後ろめたさを感じていました。
  というのは、企業は”社会や地球にいいこと”をうたいつつ大もうけをしているのです。
  自分は結局、アートで”社会や地球にいいこと”をメッセージしながら、
  商品を”買え買え”という人間に成り下がり、大金を得ていたのです。


  

  1994年、オームの事件を境に、社会の開きかけたドアーがもろすごい力で閉じられていきました。
  それから12年間、閉じられた世界の中で、自分の暮らしの完成度をあげている
  同世代の人たちは多くいました。家をインテリア風に改造したり、マクロビオティックとか
  自我に向かった力を研ぎ澄ましたり・・・・・・・・・・・・・・・。




  2006年、世界が緩み始めたと感じました。
  11月「テトラスクロール」を設立したのです。
  オープンのとき、”20歳代の人たちが右往左往しているじゃん。
  地図は持っているが、どこへ行ったらいいのかわからないじゃん”と
  北山耕平氏(元「宝島」編集長)と言われたのです。衝撃でした。
  12年間自分は沈黙していたと思ったのです。
 

  1960年世代の人たちは、その作業を怠っていたのではないでしょうか。



T−怠っていたというより、出来なかったかと思います。
  1960年代、武力による国家権力を奪いそのパワーで社会の根本的変革(革命)を
  目指していた革命党派は、1970年以降、警察や自衛隊と戦える軍事組織の建設に
  全力投球し、1972年連合赤軍浅間山荘事件で挫折したのですが、
  1968年から1970年、社会を巻き込んだ若者の反乱は、”ビッグバン”のようなものだったと思うのです。
  この”ビッグバン”は、社会の中にまかれていた様々な種子を、社会のなかで一気に発芽させ、
  1970年以降花咲かせたように思えるのです。フェミニズム、コンミューン運動、
  有機農業運動、カウンターカルチャー運動、新しい協同組合運動、エコロジー運動・・・・・・・・・・。


  これらの特徴は、60年代の運動と対比すると、”今ここから革命を”ということが出来るかと思います。
  ”国家権力奪取の後の革命”でなく、”今ここから革命を”なのです。
  1970年以降の成熟した資本制社会自身が、これらの運動を生み出す土壌を育てたように思えます。
  従って、”国家権力奪取の後の革命”に固執する限り、60年代革命党派には、
  70年以降社会の全面に登場してきたこれら「新しい社会運動」を理解できなかったとしても当然です。


  しかし、1968年ー70年の全共闘運動は、実は、”今ここから革命を”をすでに実行していたのです。
  既成の価値観が崩壊する中で、大学解体ー教育の価値観とシステムの革命を要求し自ら大学解体を実行したのです。
  その後の「新しい社会運動」の直接の出発点を体現したと言ってもいいでしょう。
  従って、あれから40年たつ現在でも、社会運動のコーディネイターとして
  活躍している”元全共闘”を様々な場面で目撃することができます。


  僕自身(田中)は、革命党派の価値観の中で活動していましたが、
  東欧社会主義崩壊後の1990年、ドイツで「アウトノミア(自律)」運動(アントニオ・ネグリを思想的リーダーとする)
  と出会い、そのオルタナティブな実践現場を目撃する中で、”今ここから革命を”に転換したのです。
  一方で資本と国家に対抗しながら、他方で、今ここから”オルタナティブ”な社会・経済的なシステムを
  作り出して行く方向への転換です。


T−グローバリゼーションに関してどうお考えですか?



M−企業の支配は国家よりも大きな力です。
  例えば冷蔵庫の中を見回せば、トマトケチャップ、コカコーラ、チーズ・・・・・・・。
  大企業による均一な食品があふれていて、生活の中で、企業による捕らわれ度が大きい。
  だから自給率を上げたいのです。これしか買えない社会、選択の自由のない社会、それは奴隷状態です。
  奴隷の教育が行われているのです。
  だから、僕は反グローバリゼーションです。
  

  嘘の幸せにNO!都市の生活は捕らわれの生活です。
  だから、脱都会。自分の力でやっていきたい。
  管理され、ああしなさい、こうしなさいと決められるのがいや。
  何が敵か、自分の中に敵はいないのか?
  社会運動の歴史を見ることが必要です。
  失敗の教訓から学ぶ必要があります。
  地球を被っているグレーな敵とはなんでしょうか?
  

  アートや音楽が、世界の見方を変えることがありえます。
  自分達が力のあるメディアを持つことによって、”しみ出るような外部注入”が可能だと思っています。
  やっていることの意味づけが大切です。


  例えば玄米菜食ですが、僕は反社会的だからやるのです。
  ちゃんと作って食べることこそ反社会的なんです。
  ”こうやってやるとすてきでしょ”、と下の世代(30、20、10歳代)に伝えたい。
  下の世代には「生の感覚」がないのです。リストカットが「生」の表現なんです。

  
  年間3万人が自殺しています。こんな社会を作ってくれといった覚えはない。
  今、この国は”内戦状態”なのです。

T−今、南房総に移住してくる若い世代の心のよりどころというか、共通した価値観に「愛」があるように思います。
  個別の愛ではなく、普遍的な「愛・LOVE」です。それが行動の原動力のように見えます。
  真魚さんの行動の原動力はなんでしょうか?
  


M−ボクの中には静かな湖があるだけです。それはただただ静かにあるだけです。
  そこに”怒り”が投げ込まれた時、ボクのアクションは始まるのです。
  例えば映画「六ヶ所村ラプソディー」を上映する時でもそうです。
  ”これを見てくれ”と叫んでいるのです。
  でも、awa our market を開催する時は、”楽しく・・・”です。
  そういう意味では僕は、「両刀使い」かも知れませんね。


  僕にはアメリカ先住民の影響が強いのです。
  20歳くらいの時にアメリカで、ロックバンドへのインタビューをしたことがあるのですが、
  ”ネイティブアメリカンのことは聴かないでくれ”といわれ、アメリカの歪みを感じました。
  僕は、弥生時代以降の文明社会の生き方と、何万年も前からの縄文的生き方との争いとして歴史を見ているのです。

T−欧米人は”人間と自由”を根本的なテーマにし、日本人を含むアジア人は”人間と自然”を
  根本的テーマとしているという考えがあるのですが、どのように思われますか?



M−”自由だ、だが自然がない”と人は思っているのです。だから、システムの外側に無事脱出したと
  移住者は思っているのです。でも、この社会は全然自由ではない。奴隷状態です。


  房総半島1万年の歴史を研究すると、私達がどのように奴隷化されたか、
  飲むもの、着るもの、食べるものの自由を奪われてきたか。自由がないのです。
  だから自由度をあげる必要があるのです。生き方を選べないのです。違う生き方を押し付けられる。
  「正しい日本人像」を当てはめられているのです。人々は被害者なのです。
  社会は変わらざるを得ない。自転車操業はもうおしまいです。システムは機能しなくなっているのです。




T−このシステムを変える方法は?


M−石油文明はもうそんなに続きません。新しいライフスタイルを考えないと埋没するでしょう。
  ”大きな物語”が必要です。数十年間のライフスタイルが世界を根底から変えてしまったのです。
  石油に代わって自然エネルギーを使ったとしても、ライフラインの最低限を確保できる(豆電球がつけられる)程度なのです。


  従って、根本的にライフスタイルを変えるしかないと思います。
  石油の枯渇は、人々が根本的にライフスタイルを変えるきっかけとなるでしょうね。



T−日本では平穏な時代には”和の精神”が支配ますが、激動期、例えば、戦国時代、幕末期、1960年代には
  ある種の能力主義と強いリーダーシップが支配するとの考えがありますがどう思われますか?



M−誰も責任を取りたくないのです。でも、激動の時代には、責任を取らざるを得ないのです。
  目標がはっきりしていない時、目標を示すリーダーが必要です。
  視点を示す、システムの変化を見せられるようなリーダーが各地域で必要かも知れません。
  フリーペーパーやメディアでもよいのですが。



T−1960年代の激動期には、無意識よりも意識がはるかに優位に立っていて、
  人間に意識を変革することに社会運動の精力を投入しましたが、
  現在では、むしろ無意識が注目されているように見えますが……?



M−広告の世界でもそうですが、無意識を戦略的に使います。違う部分の欲望を掻きたてます。
  魂を揺さぶる広告で、言葉では届かない部分へ届けるのです。
  言葉で攻めて行くと、それは直線的で、伝わらない部分が多く出てきます。
  何かを追求し、音楽を聴いているとき、たまたま隣にあったものに引かれることがあります。
  音楽は、視点を変えさせることが出来ます。それが、アーティストの存在理由なのです。
  日々の暮らしの中で感じた違和感というキズや裂け目を、本質的な気づきに導くのもアーティストの大切な役目だと思います。


  視点を変えさせる力がアートにはあります。だからボクはアーティストでありつづけたいと思っています。
  人々の考え方や見方を提示するのです。誰も傷つけたくないのです。
  だから、Aという問題について直接語らず、Aについての音楽を論じる。
  小出しにし、遠まわしな会話でコミュニケーションをはかろうとします。
  傷つかない方法なのです。



T−キリスト教文化の中では、神=絶対的真理が科学にとって代わられたとしても、
  「真理に従う」「神が見ている」という心理的伝統は、まだまだ強く生きていると思われますが、
  人間を律するものを何に求めますか?



M−昔は「世間」によって自らを律していましたが、今は縦軸が崩壊したことによって暴走しています。
  秋葉原事件のように。”みてなきゃいいじゃん”ということになってしまっているのです。
  縦軸を再構成する必要があると思います。正しく機能しているコミュニティには、垂直方向にも世界が広がっています。
  人が「正しく」生きようとする意思は、この垂直方向の軸によって増幅されます。お天道様が見ているのです。
  誰も見ていないわけではありません。
  人は、自分が生きる世界に見える様々な事象にそれぞれ物語を持っていた時代、
  人が神話のような時間の中で生きていた時代、ボクらは今そこに学ぶべきなんだと思っています。

- 農人舎(上野治範さん) -

T=田中正治 U=上野治範さん


T−いつ鴨川に移住されたのですか?
U−バブル絶頂期・崩壊直前・1991年です。
Tーいい感してますね!(^^)

T−絶頂期の東京での広告・企画の仕事をやめられた理由は?
U−”このままの人生で終わるのはいや!”だったから。その前から、
有機農業のメッカ・埼玉県小川町の金子美登さん宅に、
毎週末通いはじめていました。自然や農
への憧れですね。そこには静かな時間が流れていて、
広告業界とは対極的な世界でした。

T−鴨川での住まいは?
U−最初は、近くのお寺を借りたんです。
“お金は要らないよ”といわれたんですよ。
でも、それじゃ申し訳ないので、年5万円お支払いしました。
夫婦で。
息子は「八ヶ岳実践農業大学校」を卒業して今は鴨川で兼業農業をしています。

T−おしごとは?
はじめ、友人が亀田病院系・KTSの企画の仕事を紹介してくれたので、
  嘱託になりました。

T−農人舎を始められたきっかけは?
U−KTSの資材置き場を譲ってもらって始めたんです。
  農人舎という名前は、
  宇宙飛行士の秋山さんが「農人日記」という本を書いていたので、
  「農人」という名前を使わせてもらっていいですか?と問い合わせたところ、
  ”いいですよ、無農薬栽培でやってくださいよ”ということだったので、
  使わせてもらいました。

T−農人舎で何をやろうと思われたのですか?
U−地域でコミュニティービジネスを作りたかったのです。
  若い移住者も生活できるように。
  小さなことで、お金が入ればいいなという思いで。
  そのためには、まず自分達がコミュニティービジネスを立ち上げる。

T−それで草木染を?
U−ええ、東京の友人から、“植物を活用したビジネスをやろう。
  草木染は体にいいよ”といわれたんです。
  草木染は、「外服薬」といわれるんですね。
  つまり、着る薬です。
  胃腸病だったら、ウコン、キハダの服を着るとか・・・。
  植物の波動、自然治癒力ですね。

T−農人舎の草木染の独自性は?
U−布を処理して、色が入りやすいように、独自開発しました。
  一般には染料を買ってくるか、自然の草や花を煮出して染めるのですが、
  農人舎では、草木の抽出機械を開発して染料そのものをつくっているんです。
  それと、草木を蒸留させて、化粧水を作っています。
  「香草美肌水」と名づけていて、インターネット販売もしています。

T−若い人へのコミュニティービジネスの勧めは?
U−商品の企画・開発をして、生産・販売をしたい人に任せたいと思っています。
  自然を活かしたビジネスですね。
  例えば、トウガラシをテーマにトータルな商品企画をする。
  トウガラシ模様のネクタイ、トウガラシで染めたTシャツ、
  魔よけトウガラシネックレス、
  お店もトウガラシ色で内装・・・・といったぐあいにね。

T−う〜ん、おもしろいですね!
U−”細部に神が宿る”という言葉があるでしょう。
  おもしろいネーミング、パッケージ、物語をつけると、
  新しい商品が出来るんです。
  そして地域のデザイナーとコラボするのです。

T−上野さんの夢は?
U−地域の若者も高齢者も、一緒になって何かを作っていける、
  そういう役割の一つに農人舎がなれればいいな。
  小さな仕事を一杯作っていきたい。

U−3つのことが柱になるでしょうね。
  一つ目は、地域通貨安房マネー」。これは既にあります。
  二つ目は、コミュニティービジネス研究会。既に「一期倶楽部」があります。
  三つ目は、人間いかに生きるか研究会。これは未だないですね。

T−上野さんの哲学は?
U−環境問題の基本は、「自分が死んだ後は、関係ない」です。
  だから、自分とは何かを追求すべきなのです。
  生きている根拠は実はないのです。
  だから、死が織り込まれた存在であることを認識すべきなのです。
  何の根拠もない自分だからこそ、生の根拠を、
  行動を通して作っていかなければなりません。
  神は外にも内にも存在しません。
  人間は自分という存在を確かめたいのです。
  欲望や所有欲の根本は自我ですが、自我を越えると、
  他人も動物も植物も自分とぶっつづきの世界が見えてくるかも知れません。
  新宿に「哲学cafe」があります。
  この地域でも、哲学cafeがあるといいですね。

T−ありがとうございました。とても、興味深かったです。

定置網漁法見学&漁業について考える



”定置網漁法って、とにかく海に網をたらしておいて、魚が迷い込むのを待つんだな。

網にかかった魚の20%くらいしか取らずエコ的なんだな”くらいのイメージしかなく、

参加させていただいたのですが、とにかく広い範囲に網を仕掛けているんですね。

(注)実際には1%にも満たないようですね。





巾1600mと聞いたような記憶ガあるのですが、印象的だったのは、漁師さんたちが、

自分の役割をキビキビと果たして行く姿。


一瞬もたるんだところがないという感じで、誰から命令されるわけでなく、

全体の漁の進行を肌で感じながら、自分の役割を果たしている、そんな印象でした。

でも時々、拡声器から、情報が伝達されているようで、

全体をコーディネートしている人はやっぱりいるんですね。



港に帰ってからの魚の競りは残念ながらみられませんでした。

阿部さんが船酔いで下痢をして、トイレにお付き合いしていたので(^^;)。

僕も20分間ぐらい船酔い。



その日の漁獲高は少なかったようですが、

取れ取れの新鮮な魚のさしみと煮物をごちそうしていただきました。

甘みがあって、しこっとした感じがなんともいえない。

砂糖を入れた煮魚と砂糖を入れない煮魚はどちらが甘いか?

そりゃ砂糖入りでしょう

というのが常識ですが、取れ取れの魚では、

なぜか砂糖を入れていないほうが甘かったのですよ。



朝食後、館山の水産事務所の普及指導員をしておられる

岡本 隆さんと定置網部会長の坂本さんのおはなしををまじえて、

意見交換をしました。

魚の流通システム、定置網漁法とエコ、鴨川での魚の産直の可能性は?等・・・・結構、

突っ込んだ討論になったかなと思います。参加者大人13人+子ども1人。

帰り際に、今日取れた新鮮魚をお土産にいただき、ただただ恐縮です。

何から何まで、ありがとう。

海、魚、定置網漁法に人生をかけている人たちの損得を越えた、

あつい思いに、どう応えたらいいのか、しばし考えています。

その後のLove&Rice、self buildの家の棟上

鴨川・大山千枚田のほんの近くに、
菅間君達3組の若者が、自分達で家を建設中。

大工さんが1人入り、色々教わったり、しかられたりしながら、
2階建てのすてきな家を建てています。

伝統的な在来工法で、釘を使わず、木組み工法。
8月19と20日、友人たち、ずぶの素人10−15人が参加して、
人力で柱を立てました。
そして、8月20日は棟上。予想以上にすばらしい家が建ちそう!



菅間君達の友達の友達など30人くらいが集まり、交流会。

初対面の人たちはあっという間にopen minnd状態・・・。

世代を超えて結構突っ込んだ話し合いが行われた模様。


西の山に沈む美しい夕日を眺めながら、happyな空間が広がっていったのでした。