安房ルネッサンス・宮下昌也さん訪問記

田中 正治

長狭街道と県道88号線が交差するところから、クネクネとまがる山道を約1km登って行くと、
人里はなれた、うっそうとした山奥に入ってきた感じ。
そこに子供たち3人と宮下さんご夫婦が居を構えておられた。

今日は、住居近くの「アートガーデン・コヅカ/森の家」で行われている本多先生(写真)指導の
「錬功18法」という気功体操教室に参加しておられるというので、早速私も参加させていただき、
その後お話を伺った。
(本多先生)


T−鴨川に移住されたのはいつ頃です?

M−1990年、東京からです。かみさんが鴨川の隣の天津出身で、結婚したころ成り行きで・・・・(笑)。
はじめは鴨川・曾呂地区の畑つき古民家に移り、友人の今西さん達と4人で共同生活していたのです。
今西さんたちとは東京・西国分寺で、共同生活の経験がありましたのでね。
(空と大地の対話)




T−どのように生計をたてられたのです?

M−ライフスタイルの選択として移住をしましたので、とにかく食わねばならない、
そのためには描くことで仕事を作っていかねばならない、サバイバルですね。
元々、大学ではデザイン科でしたのでね、描くことでいろんな表現をしていこうと・・・・。

鴨川に来てからも35歳までは、映画などの背景画の職人をしたり、
雑誌のイラストを描いたりしながら作品発表をしていたので、東京と行ったり来たり。
今は絵画、Tシャツのデザイン、壁画、CDジャケット、絵本、商品のラベル、
ワークショップのアート教室、ミュージッシャンとのライブペインティングパフォーマンスなど、
いろんな仕事を、自分で作っています。
(生態系の環)

T−今西さん達と共同生活するという発想は、どこからきたのでしょう?

M−共同生活自体は偶然が重なって始まったんですけど、高校生の頃東京・吉祥寺に通学していて、
結構ヒッピーにあこがれたりしていたんです。芸大2年生の頃、会社にデザイナーとして就職し、
会社の歯車のようになって行くことに疑問がわきあがって来たのです。人生が見えちゃったというか・・・。
それで、休学してインドに行ったのです。

強烈でした。インド人の生活を見て、”これでも人は生きていけるのか!
寝るところとメシがあれば生きていけるのだ!それに、実はこちらのほうがショックでしたが、
安宿で出会う世界中からの若いバックパッカーたちの生き方をみて、
人生の選択肢は1つじゃない、いっぱいあると思わされたのです。そうしたことが背景にあったのかな。
(大地の唄)



T−宮下さんが鴨川にこられた頃、どんな人が既に移住していましたか?

M−鴨川自然王国の藤本さん、和綿の田畑さん、木版画の今井さん、尺八奏者のネプチューンさん、
ハーモニクス・ライフの森田玄さん、有機農業の星野さん、エッセイストの鶴田静さん写真家レビンソンさんご夫妻、
木工家の山本さん、スペイン料理の岡部さん、曾呂の稲垣さんや中橋さんたちですね。
1980年代に移住した第一期移住組みといっていいのかな・・・・・・・。
学生運動系が多そうですね。
(森の子供)



T−宮下さんは以前、「地域通貨」を構想しておられたという、うわさを聞いたのですが・・・・。

M−実は、「安房マネー(地域通貨)」の立ち上げ会にも出席したんですよ。
そのとき僕は、地元のスーパー「オドヤ」や「シーワールド」でも使えるような地域通貨を考えていたんです。
地方の経済人にアクセスするのは困難じゃないはず、と思い込んでいました。
安房マネー」が友達間のネットワークとして考えられていたので、僕には肩透かしに感じられたのです。
鴨川では未だ、物々交換的発想が生きているんですね。これのほうが実際的かな?
僕は運動家ではないので運動をつくろうとは思っていないんです。
(夜が来る)

米、野菜、加工品、衣服などできるだけ知人・友人から買うようにしています。
家族の中でお金を回す、円で出来る実験もやっています。
例えば友人にお土産としてパンを持って行く場合には、かみさんが作っているパンを買い友人にプレゼントします。
息子たちが家庭内で働いてくれたらバイト代を払います。
長男は、もらったバイト代で毎月のケイタイ代を親に支払っています。
結局親が払うので同じじゃないかと思うかもしれませんが、そうすると自覚的になってきます。

お金はコミュニケーションのツールなんですね。お金を稼ぐことによって、
緊張感を持って社会にかかわれます。だから夫婦別会計でやっています。



(酔っ払いブルース)

T−最近、「アートガーデン・コヅカ」を立ち上げられたと聞きましたが・・・・。

M−僕の家は借家で、家主さんは東京の人だったんです。その人が周囲に7000坪の山林を持っていて、
2年ほど前なのですが、家も含めて買ってほしいといわれたんです。

拒否したら、家を出て行かなければならないかもしれない。悩みました。長く生活している間に、
自分達が山の生態系の一部になってしまっている、安堵感がある、そんな自覚があって、
人間対自然という感覚でなく、自然の中の人間、そんな感覚を失いたくなかったのですね。
それでお金をかき集めたんですが足りなくて、いろいろな人にこの山の魅力を伝えて、出資者を探したんです。
(古老の会話)

「アートガーデン・コヅカ」のキャッチコピーは“人と自然をアートでつなぐ”です。
これは“生態系の一部である人間”という、僕の山で得た生活感に連なっている構想です。
杉や竹でうす暗くなった山を50年前の明るい山に戻していく、アートを介在させて、
遊び感覚で山を切り開いていきたいのです。
月一回くらいの里山整備作業と「森の家」でのイベントを組み合わせながら・・・・。。
(絵葉書)



T−アートに関する宮下さんの考えを聞かせてください。

M−1990年代後半を境にしてアートに対する評価は、変わってきたように思います。
1980年代までの現代アートは、インテリや専門家対象で、哲学的で難解。
それがかっこいいと思われていたのです。ヨーゼフ・ボイスのように無形のパフォーマンスにまでいきついたんですね。
(森の家と宮下昌也さん)

でも、1990年代になると、”わかんないのはつまんない”と変化してきました。
1999年東京・代々木公園での”レインボーパレード”は環境イベントだったのですが、
アーティストがどっと参加して、楽しく、わかりやすいパフォーマンスをやったのが印象的でした。
(宮下夫妻)

20世紀アートは個人のアートで、内面性に価値をおいてきたのですが、
これからはアートが本来持っている社会性を取り戻す時期だと思います。
様々なジャンルのアーティストのコラボレーションによって作品や空間が作られ、
価値が生み出されていくのではないでしょうか。
個人の独創だけでなく、歴史の積み重ね、過去のアーティストが生み出してきたものの蓄積の上に、
共同で独創性を生み出して行くことが大切と感じますね。
(『かまどの火』のパンとチャイ)

T−ありがとうございました。

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