安房ルネッサンス−ハリントン・クリスさんインタビュー
田中正治

クリスは、1968年、USAロードアイランド州生まれ。小さい牧場で育つ。元米海軍第七艦隊音楽隊サックス奏者。日本暦23年。1993年IT業界に、以降は3Dコンピューターグラフィックス、ウエッブ制作、デジタル放送制作、プロジェクトマネージャーや経営。現在は鴨川在住、在宅翻訳家(日英)。妻のエリと二人暮らし。エリも時々登場します。6時間の長時間インタビューでしたが、要点のみのレポートになります。(田中)


T−1991年の湾岸戦争に参戦したとのことですが・・・・。
C−サウジアラビアのテント村や空母で演奏したりで、半年は船で宿泊していて、直接戦闘には参加していません。海軍に入隊した多くの人は直接面と向かって戦わない人です。
湾岸戦争は始めてメディアがリアルタイムで参加した戦争です。CNNで見た戦争だったのです。ハリウッドのイメージですね。先にフィクションを考えて、後にそれを実行したのではないか。テクノロジーの進化が、先にフィクションに描かれ,後に実行されていくように。SF思想家が未来を想像し、科学者が後にそれを実現したように。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E6%88%A6%E4%BA%89

T−クリスの湾岸戦争に対する立場は?
C−100%戦争反対、暴力反対です。ヒンズー教のカルマの理念からいっても、またニュートンの熱力学の法則からいっても、暴力の使用は必ず自分に返ってくるからです。
高校のころの先生(たぶん元ヒッピー)からヒンズー教の経典(ウパニシャド)を学んだのです。僕は無神論者だったのですが。因果応報、輪廻転生は空論とは思われません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99

でも、それらを100%信じているわけではありません。99.9%しか信じません。最新の哲学思想の中でも、絶対正しいうことは証明できない、何もかも主観的に考えるしかない。当事者にとって主観的にどうかが問題なのです。2人の当事者が喜んで喧嘩していて、2人ともハッピーで周りに害を与えなかったら、いいとしかいえないじゃないですか。

暴力は結局、自分に返ってきます。怒りは、血中にストレス物質を蓄積し、病気への抵抗物質を減少させます。従って、怒りはよくないですね。90秒間、無の状態になればストレス物質は収まります。怒りは、自分の内部にストレスを発生させると同時に、他者に怒りを起こさせます。怒りが光に変わるまで。


T−光に変わるとは?
C−光とは愛であり慈悲(許し)、思いやりです。愛、慈悲、思いやりに変化することです。
ヨーロッパ・ジプシーは、迫害されてきた民で、痛みを蓄積してきました。ですから、もともと、怒りを光に変える方法を見つけていたのです。音楽や踊りがそれです。先住民もまた、儀式や祭りや踊りによってストレスを解消してきたのです。人間はそうした営みとともに進化した動物といえるでしょう。

T−今回の巨大風力発電建設の問題ですが、低周波音など住民に深刻な被害を与える可能性があり、生存のためにその建設をストップさせる運動が必要で、怒りをもって闘いを挑まなければならない場合があると思いますが?
C−風力発電建設がストップしても会社側としては整理がつかず、仕返してやりたいと思っているかもしれません。だから本当は、怒りをもたないで、相手を理解し、価値観が違うんだということを知り、かわいそうだという考えになれば、相手も冷静になりうる。解決策が見つかる可能性があります。

怒りの問題と別にもうひとつの問題があります。規模の法則です。ある大きさを越えると網羅的に物事を理解できなくなります。権力者はそういう状況が都合がよいのです。規模がある大きさを超えると権力者は少数者に対してパワーを持つ。そして、絶対権力は腐敗するのです。人間はその程度の生き物で、資本主義でも民主主義でも共産主義でもその法則は働きます。トップが善良であるという前提でしかシステムは成り立たないし、トップが特別な人間でない限りシステムは悪化するのです。

これからの新しい社会、文明でも、ある規模の中でこそ、その善良さがありうる。それを超えると絶対権力になる。そのことを理解しておかなければならないのです。コミュニティー単位で行うのが基本。中国のように大きな国で、大河がたくさんあるところでは、コミュニティー単位で対応できない例外はある。その場合もコミュニティーがどのような働きをするか考えなければならない。


T―では、小規模化するにはどうしたらよいのですか?
C−自然に放っておく方法があります。規模の限界が出てきて破綻するか、分化するか、独立します。でも放っておくと、犠牲が大きくなるので、大組織に頼らず、小さく自立すればよいのです。情報テクノロジーの歴史は、大規模化から小規模化への必然を教えています。20世紀、中心をつぶしたら村社会や流通は成り立たなかった。でも21世紀、情報に関しては、中心に頼ることはなくなりました。パソコンやインターネットによって、情報は世界の財産になっているのです。細分化に適した道具なのです。大きい規模を保つ理由はないのです。

実際、中央集権的に情報を管理することは無理になりつつあります。テレビや新聞は無意味になっていきます。一人一人が情報発信のプロになっていきます。最も、中央集権的システムは生き残りたいのですが、でもパワーを失っていきます。地域コミュニティーはネットを使ってやっていけるでしょう。インターネットで育っている子供たちには創造の限界がありません。現在までの人には物理的限界がありましたが。大規模化がインタネットを生み出したともいえます。大規模化には必然性があったのですが、今、その役割は終わろうとしているのです。

T−グーグルとマイクロソフトの違いは何でしょうか?
C−マイクロソフトは時代に逆行した存在です。一般にはハードウエアとソフトウエアをセットに販売されています。技術者は、ハードが変わるとソフトを新たに作らなければなりません。ところで、マイクロソフトの前にFree softがありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

パソコンが登場してきたとき、ソフトはFreeだったのです。その仲間に入っていたビルゲイツはFreeでなく、お金を取るべきだ、ビジネスチャンスだと考えたのです。
母親がIBMの幹部の友人だったということもあったのかもしれません。IBMとOSの開発を契約したのです。知り合いからOSを買ってきてちょっと変えてIBMに売ったのです。それがマイクロソフト社です。新しい物が出てきたら、パッケージを替え、製品化していった。ソフトウエアに価値(知的所有権)があるとし、コピーガードをしたりして価格維持をしてきたのです。

これからはソフトウエアではなく、サービスに価値が移っていくことは、マイクロソフトもわかっています。マイクロソフトの時代は終わりです。無料ソフトが登場してきていま す。とはいえ、ウインドウズに比べて出来ないことがあります。たとえば書体。今はまだ乗り越えられていません。でも、ハードルが越えられれば、一気に変わるでしょうね。

T―グーグルとは?グーグルの理念は?
C-グーグルは、たとえば「“最高” に甘んじない」「悪事を働かなくてもお金は稼げる」[ウェブでも民主主義は機能する]などの理念を掲げていて、実際ITの世界に貢献しています。ほとんどの収入は広告収入で、安定した経営のうえで、OSをはじめ、さまざまなソフトのスポンサーをしたり、サービスを無料で提供しています。パソコンでやりたいことは、グーグルの無料サービスですべて可能です。世界のトップクラスの技術者を集めているといわれ、職場がシンクタンクのような状態です。
http://www.google.com/intl/ja/corporate/tenthings.html

T―グーグルも独占化、帝国に向かっているのでしょうか?
C―無料サービス化によって独占に向かっています。でも、90%の独占率を狙っているとは思えません。グーグルのサービスは理想型にはなっていません。あえて理想型を作っていないのかも?自らを制限しているのかも?ユーザーはそれ以上を求めていないと考えているかも?競争の余地を残しているかのように見えます。完全支配の帝国にはならないと思う。7:3とか8:2を狙っているのかもしれません。「悪事を働かなくてもお金は稼げる」という理念と関係あるのかもしれない。グーグルが帝国になれば、優秀な技術者はグーグルを辞めて他へ向かうでしょう。

T−パソコンはどこへ向かうのでしょう?
C−オープンソースに向かうでしょう。大学生はお金がないので無料のものを使います。特に、クリエーターは。若者が何をしているか、そこを見れば未来が見えます。結果的にそういったユーザーが望んでいるのはOpen Sourceなのですから。

T−Linuxの未来は?
C−Linuxの技術者の半分以上は企業に雇われていて、その企業が開発した技術はオープンにしています。Open Sourceのソフトがあって、その企業にとってある機能だけ足りないと、その機能の開発を自社で雇うLinux の技術者に開発させているのです。オープンなものに貢献したほうが企業コストに合うからです。機能は進化していくでしょう。その結果、企業も、マイクロソフトから独立していきます。http://ja.wikipedia.org/wiki/Linux

T−ユビキタス社会について、どのようにおもいますか?
C−1998年ごろ、ITの自営業をしていたのですが、ある複数の企業からの提案で“インタネット広告の研究会”の立ち上げに携わったことがあります。次世代テクノロジーワーキンググループに入っていたのですが、そのときユビキタスが課題になりました。責任者になってしまい研究していたのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%93%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%B9%E7%A4%BE%E4%BC%9A
でも、例えば“おさいふケイタイ”で買い物をするとき、すべての個人の購買行動などがわかってしまいます。個人の心理分析まで出来てしまう。それは悪用しなければ個人情報保護法に抵触しませんが、その時、ジョージ・オウエルの「1984年」を思い出したのです。悪用すれば、ビッグブラザー1984年の世界がありえます。これってやばいよね!ってね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1984%E5%B9%B4_%28%E5%B0%8F%E8%AA%AC%29それで、その研究への関心が薄まりました。そのうち、会を引退したのです。

自然派以外の人たちは、テクノロジーが豊かな未来を切り開いていくと信じている人が多く、だから、技術の無限消費はOKなのでしょう。ナノテクノロジーでさまざまな物質を組み合わせ、何でも作ってくれるかもしれないと思っている思想家もいます。もっとも、現在のシステムが柔軟に,すばやく状況に対応して変化していけば、ユビキタス社会は理論上はあり得るはずです。でも、2008年の金融恐慌などを見ると柔軟で、すばやい変化はありえないでしょうね。

人類は猛スピードで走っているのですが、未来は大きな壁なのです。その壁にピンホールが沢山あります。そのピンホールを見つけて、人類はうまくすり抜けなければならないのです。ユビキタス社会は、無限の消費、地球環境がだめになるような消費を前提としているので、ユビキタス社会が実現する前にシステムが崩壊するでしょう。ですから、自然に戻って生きるしか、人類にとって道はないでしょうね。そう信じてここ鴨川に来ているのです。都市のタコツボに入っている人達にも出来れば、こちらにドロップアウトしてほしい(^^)。その受け入れ基盤が出来ればいい。それが僕らのミッションかもしれません。でもこの考えは、自分が田舎に移住した特別の意味をつけたがっているけっかなのかもしれませんね(^^)。


T−人間の自由とインターネットについてどう考えていますか?
C−昔の農村集落は閉鎖的世界でした。メディアを含めた情報化社会が、Globalizationを通じてパンドラの箱を開けさせ、その閉鎖性を打破したのです。インターネットは人間の思考を1次元アップしています。世界の価値観を変えているのです。資本と労働の関係も変えつつあると思います。インターネット情報によって自分で起業するために有利な条件を得ることが出来ます。ダーウインは世界を旅することによって現実を知りましたが、世界を旅しなくてもインターネットからは智恵と情報を得ることが出来、発想や希望を変えていけます。

8:2法則が正しいとすれば、20%の人の考えが変われば全体が変わらざるを得ません。自分たちがやりたいことをやって世間の目に触れれば、まねをする人達が現れます。そのまねをする人が20%以上になれば社会が変わります。エコ・オルタナティブですね。だから意識をあげようとしている人にだけ、情報提供、アドバイスすればいいことになります。その人達の踏み出せない最後の一歩を手助けすればいいのです。

T−コミュニケーションについて、どんなことを考えますか?
C−あるアマゾン先住民部族社会では、円形の家に住んでいます。
内に壁がありません。文明以前にどのように人間が進化してきたかは、先住民を見ればわかります。家族ではなく、部族が単位なのです。心理的には居心地がいいはずです。なぜなら、そういう風に進化したのだから。そうした環境に生きたほうが精神病が少ないはずです。
現代は「世間」という概念が走りすぎ、行き過ぎておかしくなっています。心を裸にすることが人間の進化に必要なことだと思う。人類は先住民のようなオープンな社会の方向に進んでいくと思います。

でも、“木の花ファミリー”(共同体)で住もうとしたら、僕には厳しいかもしれませんね。
http://www.konohana-family.org/
体験ツアーに参加し、大きいな刺激を受けましたが、モデルとして個々のメンバーの基本的な行動はすべて「みんなのため」という原則があるようで、本格的な共同体です。趣味の多い自分には、一人の時間はちょっと足りないかな、と思いましたが、それが気にならない人にとっては居心地がいいと思います。ですので、未来型の共同体は、緩やかなコミュニティーもあればちょっとストイックな共同体もあるでしょう。人は様々いるので、どちらも必要です。インタネットは全世界と連なっているので、自分の価値観と似た共同体を選んで住めばいいでしょう。未来は、社会の最小単位が核家族 からコミュニティーに移っていきます。価値観の似た人が集まればいい。これが理想です。新しい「世間」が生まれるのでしょう。


T−日本のかつての村落共同体の多くは、自給自足を基礎とした農村稲作共同体で、そこでは、おおむね共生、平等だったといっていいでしょう。貨幣経済、資本主義経済は都市化を進め、若者たちは都市に流れ、村落共同体を空洞化させました。企業は村落共同体の伝統を組み込みましたが、それは擬似家族・共同体で、実態は資本と労働のシビアな関係では、支配・隷属関係は貫かれてきました。人間は孤立した個人としては耐え難いもので、、孤立し孤独化した個人を追い詰めています。しかし、そのような事態は、他方で、その社会的関係から脱出し、人間の信頼、連帯を、新しいコミュニティー・共同体を求めようとする衝動を人々に生み出すことになります、人は自立を前提として始めて意識的な脱出を始められる。東京から鴨川などに脱出してくる若者がそうです。

T−でも、今、都市の若者たちの特徴は、鴨川に移住してくるような自立した人間の関係ではないらしい。渋谷ギャルの中で起こっている新しい現象は、「新村社会」といわれ、気使い150%のような社会(コミュニティー)、「超調和世界」だそうです。「そうね、そうね」の世界。携帯電話常用世代から「超気使いコミュニケーション」が生まれているらしい。僕は、渋谷ギャルたちは、自分の言いたいことをお互いに一方的にしゃべりまくっていると思っていたので意外でした。
C−ケイタイ世代はポジテイブだ。バブル期に就職した世代がこの「新村社会」的コミュニケーションを作ったと思う。僕はアメリカ型コミュニケーション(自己主張型)から、日本型コミュニケーション(調和型)に切り替えるのに苦労したのです。

T−「新村社会」では、「あいそ笑いを絶やしてはいけない」「弱っている村人を励まさなければいけない」「会話をとぎらせてはいけない」「一体感を演出しなくてはいけない」「共通話題を作らないといけない」「正しいことより「空気」に従わなくてはいけない」「コンプレックスを隠さなくてはいけない」「だよね会話をしなくてはいけない」「自己紹介が長い人はありえない」こうした“厳しい戒律”があるようです。
http://book.asahi.com/business/TKY201002160286.htmlこうした“厳しい戒律”があるにも関わらず、“掟破り”がゆるされる、村人がいるというのです。

たとえば「ケイタイを持っていない村人」「キャラ立ち」(ぶりっこキャラを確立してしまえば通ってしまう)「徹底的KYキャラ」(トランプのジョーカーのような存在)。要するに出る杭は打たれるが出すぎた杭は打たれないということらしい。でも、一歩間違えば村10分になってしまうらしい。

C−なぜ村10分(精神的排除)が可能かというと、バーチャルな世界だからです。初期化が出来るから。卒業すれば白紙になる。子供遊びのようなものです。就職すれば白紙になるからです。

T−縦社会は崩壊しつつあります。情報発信力のある人が権力を握る時代です。
C−そうですね。ネット社会では文章力ではなくコミュニケーン力が力なのです。


T−欧米と日本のコミュニケーションの違いは?
C−若い人達は渋谷ギャルのコミュニケーションの方法が一般的です。日本のコミュニケーションは、常に調和。意見の違い=きげんが悪くなる。だから、意見の違いを避けます。

アメリカのコミュニケーションでも、すでに価値観が似ている人達が集まった時は、調和です。同じ宗教の人達はあまり議論はしません。価値観を共有しているので。
インテリになると、その場面、状態で議論していいかどうかが決まります。礼儀があるので。インテリ間では、意見の違いに関して感情的にはなりません。論理の闘いです。論争が熱すぎると次は招待しません。根本的世界観の対立が出てくると、付き合えなくなることがあります。感情的になるのは家族の間でです。

T−僕が住んでいる部落の会議でも意見の対立はあります。冗談ぽく対立意見を言い合う。ガキのころからの幼馴染なので。意見を遠慮して言わないことはあまりないようです。冗談ぽく、オヤジギャグっぽく、ダジャレっぽく。猛スピードで。移住者の僕はついていけません(^^)。でも、よそ者との関係では慎重です。
C−これから作る共同体では、強い共通理念か非暴力的トレーニングのようなものが必要だと思う。「地域自給組合あわのわ」の中で非暴力的トレーニングのプロジェクトのようなものがあればいいね。知らない人同士がコミュニティーを作ることは大変なので。

T−鴨川移住者も、「渋谷ギャル」ぽいコミュニケーションやってるよ。
でも、相手の意見の内容をを聞く前から「そうね、そうね」会話はしていない。お互いにもたれあっていず、自立しているから。

C−リーダーはいないほうがいい。担当はいるがリーダーはいない。プロジェクトリーダーはいるが全体のリーダーはいない。それがいい感じだ。

T−先日神戸でウージャンシー(有機農業と新しいコミュニティーに向けた運動)の世界大会があった。アメリカでは(地域サポート農業)CSAといい、日本では提携といいます。
会議で、日本人は経験発表の積み上げから論議を発展させようとする傾向が強く。日本人から見れば欧米人のやり方はトップダウンに見えます。だから、日本人からボトムアップでやろうという意見が出ました。
欧米人は理念やプロジェクトをはっきりしていくことからはじめようとします。だから、意見の対立が激しい。社会は意見の対立があったときどういう風に解決しているのだろうか。http://www.joaa.net/moyoosi/mys-70-1105.html

いくつかの解決方法があると思う。
1つは多数決。多数意見は暫定的真理として、一応多数意見を承認し実践する。これは欧米的方法。民主主義。
先住民社会では、順番に長々と話、最後は長老(経験知)が意見をいいそれを了解する。
日本の村社会では、多くの場合、たたき台をたたきあいながら、お互いにすり合わせを、1周、2周、3周し、最後にとりあえずこうしよう、という方法で合意する。多分これが「渋谷ギャル」的コミュニケーションの基礎になっていると思う。

欧米人では、意見と感情を区別できるらしいですね。なぜなら、理に従うという考えが肉体化していると聞いたことがあります。もともとは超越的神=真理に従うとかんがえが歴史的に長い習慣になっているとのことだが、そうなのでしょうか。

エリー日本人は一人一人が神様だから、神神が喧嘩したら最後よ。欧米社会では絶対的神が上にいて、人間は神の下にいる。神によって作られたもの。だから神=真理は絶対的で、従うべきものという心理が生まれるの。


C−神だけの話をしていた時代には、意見の違いは殺し合いにまで発展する可能性がある。絶対観念が、脳の中に出来ると結晶化し、これが一個出来るとそこから結晶化しやすくなる。もっとも、科学が入ってくるとちょっとは柔軟になりましたが、西欧文化の根本的なところに脳みその結晶化があります。科学者がインスピレイション(ひらめき)を得るとき、それが自分の過去の蓄積の結果だとは思えない。だからニュートもアインシュタインも神を否定しないのです。

T−いわば1960年代は普遍の真理を求めた時代です。1970年ごろ反体制運動は挫折しました。しかし、ヨーロッパは挫折していない。だから普遍の真理はまだ生きています。1970年代、ポストモダン派の人々は、理念は死んだ、革命というような大きな物語は死んだといい、小さな物語を語った。フェミニズムエコロジー、身体論・・・スペシャルインタレストグループなど。

1980年代のバブル期、浅田 彰に代表されるように、思想をおもちゃ箱のように楽しみました。マルクスやカントもおもちゃ、楽しい知的ゲーム。
1990年代、バブル崩壊とともに、深刻な危機がおとづれ、人々はリアルな現実に戻っていった。軽いおもちゃ箱は魅力をなくし、泥臭い思想が登場してきました。日本とは?日本人とは?生きるとは?・・・・。それはグローバリゼーションという大海に漂う
不安感を背景にしたナショナリズムの台頭でした。

ゼロ年代を代表する思想家・東 浩紀の言説を見ると、インターネットなどの技術が現実に社会を変えている、理念が社会を変えているのではなく技術が変えているのだといいます。理念自体が否定される。でも、人間は理念なしに生きていけるのでしょうか。例えば
グーグルには明確な理念があります。いくつかの理念に基づいてグローバルな事業を展開するまでになっています。合理性と社会のニーズを伴っているとき、やはり理念は社会を変えているのではないでしょうか。


C−社会を変えるのは理念でも技術でもなく人間だとおもいます。もっとも、ツールが優れていればいるほど、理念が親しければ親しいほど変化が早くなります。理念はきっかけ、インタネットはツールにすぎません。
規模化が問題なのです。規模が崩れてくると、それに基づいていた理念も崩れます。
コミュニティー単位の倫理、理念に変えていけばいいと思います。現在、大規模な社会が存在するので、このような考えは奇異に見えるかもしれませんが。

T-倫理とは何を指しているのでしょうか?日本人に道徳(モラル)という思考はあるが、倫理という思考はあるのか疑問です。
C−最近まで農村集落が存在していたので、当たり前すぎて倫理とみなされていなかったのでしょう。現在でも倫理が少しは残っています。本来なら先住民が持っている倫理は言葉には出来ません。先住民とともに存在したもので、風土に合っていたのですから。

T-−50年前の日本の農村社会に存在したのは、倫理ではなく「世間の道徳(モラル)」だと思います。都市化したら「世間の道徳(モラル)」は崩れていきました。古い共同体を出て裸の個人になった人間が何を精神的規範とするか、それが倫理です。欧米人は超越的神の世界で生きてきたから倫理は理解しやすいのではないでしょうか。
日本人は神がどこにもいると思っているから、超越的神倫理は理解しにくいのです。現在とは「世間の道徳(モラル)」が崩れ、倫理が確立していない狭間にある時代だと思います。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060530/p1

エリー日本人の倫理はそのつど形成されるものよ。すべての原型は母との関係の中で形成される。そこが日本人の面白いところなの。

T−それは面白い。次回のインタビューはエリちゃんだ(^^)。